はい愚痴るよぉ
仮説:「競争して勝たないと生き残れない教育・経済システムからは、偉大な思想家や作曲家はもう出て来ないんじゃないか?」
昨夜、彼女と2人で近くの中華へ夕飯を食べに行った。
前期も中盤にさしかかっていて、そろそろ学生達が課題の締切や中間試験の準備にイライラし始める時だ。
自分らも例外無くピリピリしていたが、色んな話をした。
話は「課題の締切日」→「今年の学業成績の目標」→「卒業後の進路」と変遷し、
そして「僕ら2人のこれから」にまで及んだ。
ちょ待……それ…SWN1(避けたい話題 No.1)やないかい…
何故なら、彼女は中国系マレーシア人…
「東京で就職したーい☆」なんてほざくと一気に雰囲気ブルーである…
彼女は、現在大学に通い暮らしている都市での就職を望んでいる。
だが、海外生(オーストラリア国籍や永住権を持っていない学生)にとって、ここでの就活市場は、めちゃくちゃ厳しい。
大学を卒業して1年以上就活したけども、ここで就職できず、仕方なく母国に戻って就職した先輩達を何人も見送ってきた。
彼女がふと愚痴った。
「いや、カリキュラムの進み速すぎてマジ嫌んなるわー。
教育って、受ける本人にもっと精神的余裕があるべきじゃない?
良い成績&良いレジュメ(履歴書)がないと仕事もらえないって、
学生の間の私ら精神的余裕マジ皆無じゃない?」
核心突いてるな…と思った。
自分の周りには、海外生が多い。
中国本土・マレーシア・インドネシア・シンガポール・インド・香港・ベトナム・韓国・スリランカ・台湾・日本… (大学の統計サイトから引用。)
彼らからすると豪州の方が給料も生活環境も良いし、経済的・社会的機会も多い。
(この点、日本人であることは超ラッキーだと個人的に思う。)
だから多くの海外生は、今学んでいる都市で就職するため、必死で努力している。
独り黙々と頑張ったり、他人を蹴落としたり、誰かのつてを頼ったり。
シンプルに言えば「競争しまくっている」。
・就活に関する有益な情報を持っているけども、友達には教えないでおこう…
(友達って、友情ってなんやねん…。)
・1億円目の前に積まれたら(あるいは仕事あったら)絶対やらない様なサークル活動を喜んでやろう…功績が多いほど就職に良いから…
(自分が本当に興味・情熱持ってることやった方が良いんじゃない…?)
・本当は好きでもっと深めたいんだけど、「非生産的」な趣味は断念しよう…他のもっと「生産的」なことに時間を割こう…いつも何か「生産的」なことをしていよう…
(それやったとして後で後悔しないか? 自分の彼女は絵を描いたりギターを惹くのが好きだけど、もう久しくその姿を見ていない、そしてそれは悲しい。)
これらは、実際、自分や友達の身に起きたことだ。
競争(ここでは大学→新卒雇用の競争だが…)って、これでいいんだろうか…?
個人的には「なんかもったいないなぁ」と思う。学生はその過程で、それぞれの個性に本質的に関わるような様々なモノ・コトを犠牲にしているんじゃ…と可哀想に思える。
激しい人材競争は、マクロ経済的に見れば、より良い財やサービスが生み出されることに寄与しているかもしれない。
だがその過程で、間違いなく多くの学生の、人間の本能的な(芸術的な?)感覚を鈍らせたり、可能性を制限しているのでは…と個人的に危惧している。
何よりの証拠が、「多くの学生達の心が充足してない・ハッピーじゃない」という事。
「自分の中から自然に出て来る衝動」ではない何かに常に追われている。
いつ安心するのか?就職したらか?
どんな活動をするにせよ、それは己の中に出た結論・考え・アイデアに沿ったものでなければ、結果的に個人の充実感や自信に繋がらないんじゃないか…?
そしてこの大学・就活市場の競争はその傾向を助長しているのではないか…?
だが、自分の友人でこう言う学生がいるのも事実だ。
「それでも構わない。キャリアの上で苦労や理不尽は覚悟してる。」
その考え方もありだろう。
だが「偉人」と言われる人達は、まさにこの人間の本能的な感覚を研ぎ澄ました人達なのではないか…?その結果が、後世に残るような「偉業」なのではないか…?
偉人達は、皆が皆、世界ランク上位の大学で学士・修士・博士号をとった訳ではない。
競争を勝ち抜いて当時イケてる仕事をゲットした訳でもない。
そんなのググったらすぐわかる事。
彼らにとって「成功へのレール」なんてものは存在しない。
放蕩・放浪しまくったり、挫折しまくったり、ひたすら1つの事に没頭したり。
こういう「非生産的」な物事が、現代ではまったく評価されていない気がする。
今日はここら辺で。